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成功者になるための法則その10 
生と死と仏教

category: その他
第60号(2014年11月01日発行分)
エヌエムシイ税理士法人 会長・税理士
野本 明伯

秋も深まり、今年もあと1カ月余りを残すのみとなりました。
 毎年年末を迎えるたびに、「もう師走か、1年があっと言う間に過ぎていくなあ」という声が聞こえてきます。時は一瞬も立ち止まりません。私たちはみんな、その時間に乗って、それぞれの後戻りできない人生を突っ走っているわけです。そこに大きな生きがいを感じている人も多いことでしょう。

 でも、決して忘れてはいけないことがあります。それは「私たちはいずれ死ぬ」という事実です。死は、すべての人に決められた、絶対に変更できないスケジュールなのです。
 今回は少しあらたまって、生と死、そして宗教というものについて考えてみたいと思います。みなさんもこの機会に、ぜひ考えてみていただきたいと思います。

ある朝、突然亡くなったMさん

先週の月曜日のことでした。私は出勤前にメールを確認し、愕然としました。「Mさんが亡くなりました」とあったのです。享年67歳。心筋梗塞だったようです。
 たった3日前の金曜日、私はMさんから今後の仕事への意気込みが感じられる元気なメールをいただいていました。その翌日、突然亡くなってしまったのです。

 出勤して社員にMさんの訃報を告げると、みないちように驚きました。「あの元気なMさんが…」と誰もが信じられない面持ちでした。
 Mさんとは1年ほど前に知り合い、かなり踏み込んで経営指導をさせていただいておりました。一緒に事業も進めていました。毎週金曜日には必ず当社を訪れていましたから、社員もよく知っていたのです。

 その金曜日、Mさんはたまたま多忙で当社を訪れることができず、メールをいただいたわけです。とくに体調が悪かったわけではなく、Mさんの会社の社員のお話では、いつものように遅くまで元気に働いていたそうです。そして帰宅して遅い夕食を食べ、就寝した翌朝、Mさんは倒れたのです。救急車が呼ばれましたが、到着前に息を引き取られた、とのことでした。
 あまりに突然のことで、いまでも信じられない思いでいっぱいです。

Yさんの脳卒中、御嶽山の噴火……

Mさんの突然の訃報に触れて、私は最近に起こった二つのことを思い浮かべずにいられませんでした。

 一つは2カ月ほど前のことでした。5年前から一緒に仕事をするようになり、現在では毎日メールや電話でやりとりをしていたYさん(69歳)が突然、脳出血で倒れたのです。

 Yさんもスイスやドイツと日本を行き来するバリバリの経営者でした。幸いなことに一命はとりとめ、言語障害と一部身体の麻痺が残ったものの、1カ月後には仕事に復帰。早速、スイスへ飛び立って行ったのです。
 ところが帰国してまもなく再び倒れ、緊急入院となりました。そしてさらに病院内でも倒れ、Yさんは現在も集中治療室で意識不明の状態が続いています。

 もう一つは、9月27日(土)のお昼ごろに突然噴火した、あの御嶽山の災害のことです。
 ちょうど御嶽山頂上付近から素晴らしい紅葉が見られる時期で、たくさんの登山客が絶景を楽しんでいました。登山コースは小学生でも登れるレベルですし、当日は風もなく晴天に恵まれていましたから、誰もが幸せな気分で御嶽山からの雄大な自然を楽しんでいたことでしょう。

 そんなとき、巨大な噴煙が静かに上がったのです。平和な時間は一瞬にして地獄に変わりました。太陽は火山灰に遮られ、青空は一転鉛色に変わり、あたりは夜のようになって大きな噴石が降り落ちてきたそうです。
 10月27日現在、亡くなった方は、10代から70代までの57名、行方不明の方は6名と報道されています。亡くなられた方々はどのような思いでこの世を辞されたのだろうと考えると、心が痛みます。

自分はまだまだ死なない?

私はあらためて、「人の死は年齢順ではないんだ」ということを思いました。1歳の赤ちゃんが亡くなることもあるし、病気一つなく、まだまだ死とは無縁に思われる50代、60代の人が突然死ぬこともあります。一方で、100歳を超えても元気に暮らしている人もいます。

 どんなに健康で元気でも、死は常に人のすぐそばに寄り添っています。運良く不慮の事故や災害を切り抜けても、いずれ寿命が来れば人は死んでいきます。これは変えることのできない事実です。誰も否定しませんし、知らない人もいません。
 ところが、そんな現実があるにもかかわらず、多くの人は「まだ自分の番ではない」と考えて日々生きています。元気だった人が突然死を遂げようと、不慮の災害で若い人が亡くなろうと、それはその人のことで、自分はまだまだこの先もずっと生きていくだろうと考えているのです。そう考えていなければ生きていくこともできないかもしれませんが、そんな状態のまま死を迎えてよいのか、という気持ちも私にはあります。

 なるほど、生命保険や災害保険に入って不慮の事故への準備をしている人はたくさんいます。また、死を覚悟して身辺整理をする人もいます。しかし、自分が死ぬことへの本当の準備は、どうなのでしょうか。
 この世に生まれ、現世を生き、やがて死を迎える。その最後にやって来る死を前提とした生き方というものを、ほとんどの人はしていないのではないかと私は思うのです。

死んだら終わり、でしょうか?

みんな、いずれ自分も死ぬことは理解しています。しかし、自分は死ぬ、明日にでも死ぬかもしれないという前提では生きてないのです。
 なぜ、自分の死を自分のいちばんの大問題として考え、その本当の準備をしようとしないのでしょうか。
 それは「死んだら終わり」と考えているからではないかと思います。

 私は「死んだら、終わりなのですか?」と聞いてみたいと思います。もし死んだあと何もないのであれば、死んでしまった骸(むくろ)は生ゴミと一緒ではないですか。本当にそうでしょうか。
 大切な人の亡骸(なきがら)をゴミに出す人はいません。「自分が死んだらゴミに出しておいて」などと言う人もいません。法律以前にそんなことはしないのが人間なのです。

 日本人はいまや、仏教徒というより、無宗教を自認する人が多いでしょう。しかしそれでも、人が亡くなればお坊さんを呼んでお経を上げてもらい、お葬式を出して、お墓に埋葬します。お彼岸にはお墓参りをし、お盆には帰省してご先祖様と過ごすのです。
 それはなぜか。簡単に言えば「来世のことを考えるから」です。死者にはあの世で安らかに眠ってほしい、幸せに暮らしてほしい、そう願うから、残った人は位牌やお墓の前でお釈迦様の言葉であるお経を口に出しつづけるのでしょう。
 宗教というのは仏教に限らず、すべてそうだと思います。「来世」のことを思って、人は宗教を信じるものなのです。
「私は無宗教、死んだらすべて終わり」と考える人も、お墓参りをしてご先祖様に手を合わせます。それは儀式ではなく、人の心の中にある死への準備にほかならないのです。
 しかし多くの人がそのことを意識せず、単なる儀式や習慣としか考えていません。そして、現実に起こっている目先のさまざまなことを「いちばん大切なこと」と考えて、右往左往しているのです。本当に自分の死への準備は、していないのです。
 私はそのことに、とても残念で悲しい気持ちがしてしまいます。

すべては宇宙から来て、宇宙へ還る

生命は、摩訶不思議です。死のことを考えると、「自分はどこから来たんだろう」とは思わないでしょうか。そして「どこへ行くのだろう」と。
 科学的には、両親の卵子と精子が出会って細胞分裂をくり返し、やがて誕生し、成長して現在の自分になった、と説明されます。しかし卵子も精子も、ほとんどは水分なのです。それがなぜ人間になるのでしょう。DNAがあるからですか? では、DNAとはいったい、何なのでしょう。現世を生きている人間にはわからないのです。
 しかし、2500年前にお釈迦様はわかりました。お釈迦様は「宇宙の真理をつかんだ」と言っています。つまり、現世の形あるものはすべて宇宙から来て、また宇宙に戻るんだ、ということではないかと思います。
 『般若心経』という代表的な経典には「色即是空」という有名な言葉があります。「色」は目に見える形あるもので、それはすなわち「空」だと言うのです。
 「空」は「空っぽで何もない」という意味ではなく「目に見えないもの」のことです。目に見えないものから、この世は出来上がっているんだよ、お釈迦様は教えているのです。
 物理学では、どんな物質も分子が集まって出来ている、分子は原子が集まって出来ている、原子は素粒子によって出来ている、そしてその素粒子は宇宙から降り注がれている、ということがわかっています。お釈迦様の教えと同じです。
 そして「空即是色」です。「空」から出来た「色」も、いずれまた「空」に戻るということです。人間も骸を放置しておけば、やがて消えてしまう。そうですが、それは決してカラになったわけではなく宇宙に還ったのだと、そういうことを言っているのが『般若心経』です。
 宇宙は決してカラっぽではありません。さまざまなエネルギーが渦巻いています。モノも生命も、すべてはそこからやって来て、またそこに還るのです。死んだら、われわれは宇宙に還るのです。
 現世があるのは前世があった証拠、そして現世の次には来世がある。だから来世のために準備するのです。

いまの一瞬を生きつづけること

われわれが生まれてきたのは何のためでしょうか。それは、極論すれば「死ぬため」なのです。来世につなげるための、この世の生なのです。
 私の愛読書に、吉田兼好の『徒然草』があります。そこには「いま、この一瞬を大事に生きる」という刹那主義が書いてあります。それは、明日のため、次世代のためなのです。
 先日、TBSテレビの『夢の扉』という番組に、抗ガン剤の副作用をなくす研究で世界的に有名な児玉龍彦教授が出演し、「今日に立脚して明日がある」とおっしゃっていました。
 また、先日ノーベル賞を受賞された赤崎勇博士(85歳)は「ずっと先のことより明日のために毎日研究を続けた結果がこの成果です」とおっしゃっています。
 二つの言葉とも、私には吉田兼好の教えと同じように聞こえました。

死への準備を怠らない

本多顕彰著『徒然草入門』(光文社)に次のような言葉が書いてあります。
『あなたが若い人なら、自分の将来にちょっぴりの不安を持ちながら、バラ色の人生を描いているにちがいない。
 だが、20代、30代と進むにつれてその夢は、しだいに小さく、色あせてくるだろう。
 そのことは、40代、50代の人にとっては身にしみて納得できることだ。
 何もなし得ないで「死」を迎えた人ほどみじめなものはない。
 他人事ではない、明日にも、「死」はあなたを襲うかもしれない』と。
 人間として生まれてきた目的は何なのだろうか。人生の一大事である「死」。その準備を怠るなと、700年前の兼好法師は、徒然草の中で教えています。
 多くの人は仏教を誤解して毛嫌いしますが、仏教は私たちに大切なことを気づかせてくれます。そこに真理があるからだと思います。だから2500年も続いているのです。
 死を考えることは、現世の生を考え必死に生きることです。万人に必ず訪れる死をいつも意識し、死ぬ瞬間までそれぞれの思いのなかで準備をしておかなければならない……。
 この1カ月に起こったいろいろなことを思い、私はあらためてそんなことを考えていたのでした。

税務総合戦略室便り 第60号(2014年11月01日発行分)に掲載

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